2010年03月04日
『プラネテス』と『涼宮ハルヒの消失』
何故に今頃?と言われそうですが、それはエクリ掲示板をご覧いただくとして、
ここでの突っ込みどころは何故に劇場版アニメ『涼宮ハルヒの消失』を一緒に扱うのか、というところでしょう。
私なりに共通する部分がありましたので、単一で扱うよりも面白い比較ができるのではと思い、そうさせていただきました。
壮大なテーマのNHKアニメと世界系萌アニメ、どこに共通する部分があったのでしょうか?
※これ以後、ネタばれもありますので、見ていない方はご注意くださいませ。
まず、『プラネテス』でございますが、2075年前後を扱った近未来アニメで、主人公はスペースデブリという宇宙のゴミ(使用しなくなった人工衛星やロケットの切り離した残骸など)を回収する部署に所属する青年。
デブリ課、通称半課(半人前)と呼ばれる部署は、大手宇宙開発業者テクノーラを初め、どの会社でも赤字部門、安月給で社会的評価が低い仕事という認識を持たれています。
現在の企業イメージのための環境対策、と共通する部分もあります。
いつの時代も“イメージ”は大事なようです。
主人公は星野八郎太(通称ハチマキ)という入社4年目の青年。物語は彼に“かわいい後輩”タナベがやってきたところから始まり、様々なエピソードを交えながら、成長していくところが描かれています。
漠然と持っていた夢(マイ宇宙船を持つ)が、現実的にはどういうことなのかを否が応でも認めなければならない中での様々な葛藤、それは時代を超えて共有できる人間としての感覚であり、故に『涼宮ハルヒの消失』における主人公、キョンの葛藤、自問自答に通じるところを感じました。
『涼宮ハルヒの消失』は現在公開中のハルヒシリーズ初の劇場作品です。
第2期のテレビ放送で放映されるという噂もありましたが、こういう形となったようです。
人気の高い原作の映画化はかなり期待されており、2時間40分もの大作になりましたが、そんな時間の長さを感じない期待以上の仕上がりになったようで、概ね歓迎されているようです。
この物語は普段は無口キャラの“対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース”長門有希が、蓄積された細かいエラーによって“誤作動”を起こし、世界を改変させてしまうお話しです。
ハルヒの登場人物には、俗に宇宙人、未来人、超能力者がいますが、設定では各人独自の宇宙空間を持っているといってよいでしょう。
それぞれが別次元でありながら共通するキーワードは“涼宮ハルヒ”
ハルヒは神格化されています。
しかし当の本人は気づいていない。
その中で1人普通の人間であるキョンの一人称で語られる物語が『涼宮ハルヒの憂鬱』です。
そんな日常の中でハルヒがもたらす非日常に振り回されてきたキョンは、その都度溜息を漏らし、嘆いていたが、長門の“誤作動”により生じた新しい世界には宇宙人、未来人、超能力者は存在せず、ハルヒにも超人的性質はありません。
そう、普通の高校生活がそこにあった。
キョンは戸惑う中で、改変前の世界に戻りたいという気持ち、すなわち、ハルヒに振り回され、宇宙人、未来人、超能力者がいる非日常世界が本当は楽しかったのではないか、ということに気づき愕然とします。
そのどちらを選ぶのかという選択肢を、長門が残していたところにいわゆる“萌”もある。
なぜならこの世界の“人間長門”はキョンを好いているからです。
キョンはハルヒを好きでありながら、それを自分自身で認めたくない、認めない方向で動いていますが、ここで彼はハルヒが好きであることを認めざるを得ません。
長門か、ハルヒか、という選択肢でもあるのです。
『プラネテス』のハチマキはマイ宇宙船を持つという夢から、宇宙開拓の最前線で使命(木星往還船「フォン・ブラウン号」のクルーになる)を果たしたい、というものに変わっていくが、それに対して様々な葛藤をする。自分の信念を正当化できずに、もう1人の自分と戦っている。
交際したタナベと結婚し、地球で暮らすという選択もあったり、
信念で突っ走るフォン・ブラウン号の機関長であり、父でもある五郎の存在であったり、
宇宙の師匠を同じくし、軌道保安庁を隠れ蓑に“宇宙防衛戦線”のテロリストであったハキムとの接触による、宇宙開発が人類にとって本当に有益なものなのか、という根源的な問いもあったりと、悩ます要素はたくさんありました。
キョンは高校生らしい、青春的な葛藤ですが、25歳のハチマキはかなり深刻な葛藤です。
しかしどちらも、現実、仮想、現代、未来関係なく、人間の成長過程で経験するものではないでしょうか。
さて、今回は主人公の葛藤をテーマに異なる2つの作品を考えてみましたが、どちらとももっとたくさんの魅力を持った作品です。
ハルヒについては以前、かなり書きましたので、プラネテスについて少々追記します。
『プラネテス』は全26話あり、前半が各話完結のエピソードですが、後半の伏線となっています。
後半は息もつかせぬ展開で、前半のエピソードも絡んで様々な人間の欲求が交差した壮大なストーリーとなります。
“多様性”がこの物語の大きなテーマでもあると思います。
現代社会も既に近代化とグローバル化の中で、多様化した社会になっています。
先進国を中心に考えられる地球問題は、そのまま宇宙問題にも繋がっています。
貧富の差が拡大し、地球問題も解決できないまま、宇宙開発をすることの意義についてはとても考えさせられます。
宇宙防衛戦線、というテロ組織は現代の中東問題と同じ構図でしょう。
テロ、とういう手段でしか巨大資本に抵抗する術がない。グローバル化の中では国ではなく、資本家が黒幕であり、その広大なネットワークは正義や平和を唱えているだけでは何もできないことを突きつけます。
ウェルナー・ロックスミスが、実験が失敗しようが、私が誰よりも優秀な科学者である限り必要とされる、というようなことを言いますが、まさしくそれは国を超えて資本が動いていることを意味します。
ハキムも、そしてハチマキも、そしてロックスミスも。誰もが正しく、そして正しくない。
それが多様性であり、相互の共通認識をルール化できなければ共存ができないということと思います。そしてそれが究極的には理屈ではない、とうことを体現したタナベの“愛”に
私は号泣してしまいました。(第24話)
プラネテスは完結しない。
物語が完結するとしたら、人間が新たな次元に到達したときなのかもしれない。
2009年09月23日
東京マグニチュード8.0

フジテレビ系、「ノイタミナ」枠で7月~9月まで放送されていたオリジナル原作のアニメ、『東京マグニチュード8.0』
このアニメからは、リアルなテーマだけに、お決まりの感動ストーリーとは別に、日本における社会的諸問題を随所にみることができる。
それらは、およそ次の4つに分けられる。
1、 災害に関しての危機意識(防災意識)
2、 人間関係(親子、兄弟、他人)
3、 将来の希望
4、 世代共有体験
巨大地震という大惨事は、大都市東京の破壊をもたらし、多くの人命を奪った。
しかし、本当に失ったものは何か?それによって得られたものは何か、浮き彫りになったものは何か、現代日本の社会を覆う様々な問題を読み取ってみたいと思う。
災害に関しての危機意識(防災意識)
日本は地震大国であることは誰もが知っている。
これらは定期的にテレビ報道や特集番組などで言われていることである。
しかし、実際大地震が起こったとき、どういった行動をするべきか、などを具体的にイメージできる人は少ない。
阪神大震災や新潟地震などを経験している人は別で、それらに関わった人も恐らくある程度は意識できるかもしれない。
東京は昔から大きな地震が定期的に起こることが分かっている。人口が集中し始めた江戸時代から、破壊と再生を繰り返してきた街でもある。
しかし、一番新しい関東大震災からはもう80年以上が経っており、急速な高度成長を遂げて世界的な大都市へと変わった現在は、過去の街とは大きく異なる。
成長の過程でこの大震災を意識しなかったわけではないだろうが、首都東京に集中する人口に伴う経済的需要は、いつ来るか分からない地震を意識などせずにわずかな隙間も見逃さず雑居ビルを建てさせた。下町の密集度合いも大きな災害をもたらす。
現在の東京都の人口はおよそ1300万人!人口密度も世界上位である。
さらに日本は東京に国の中枢機能や会社の本社などが集中している。臨海都市に埋立地が多いことも不安材料の一つだ。この話ではお台場での被災が描かれている。
不安要素を書けばきりがないが、このアニメが防災意識について考えるきっかけを少しは与えたかもしれない。
さて、後の残り3つはかなり密接に関係する問題なので、人間関係、将来の希望、世代共有体験はまとめて考察したいと思う。
そもそも現代の日本とはどんな社会なのだろうか。
私なりの視点で簡単に説明しておこう。
日本は冷戦下、核の傘のもとで高度成長を遂げて社会は成熟し、世界の資本の流れは実態経済から金融経済へと移行した。
グローバル化が進み、社会の枠組みも大きく変化していたが、それは専ら“世界”であり、日本は旧態依然として、新しい時代に適応する社会システムを構築することができなかった。
その“膿”が出始めたのがバブル崩壊後の90年代、そして21世紀の現代まで急場しのぎの政策で“古きよき時代”が保守されてきた。
長い物には巻かれろ、という暗黙の同意が、真実を覆い隠して見せかけの平和を享受していた、ということであろうと思う。
このアニメの主人公兄弟は、姉が小野沢未来、中学1年、弟が悠貴、小学3年、震災地で出会うバイク便ライダーの女性は日下部 真理、32歳でシングルマザー。
思春期の未来は、母親の希望だった私立中学へ進学したが、自分で決めた進路ではないため特に目標もなく、将来に対して希望を持ってはいなかった。(ここに教育関わる諸問題があることは言うまでもない)
基本が暗記教育で、自ら考え、実行し、リスクを体験するということが、学校でも家庭でも出来ていないために、子供は体裁を装う“オトナ”に対して大きな疑念を抱くことになる。言っていることとやっていることが違うことを、子供は敏感に感じ取っているのだ。
良い学校に行くことがそれだけで価値となる、その後にある社会は考えられていない。というよりは、年功序列の終身雇用で回っていた時代はそれでもよかった。良い学校に行って、良い会社に入って、死ぬまで安心という妄想が一時的にも現実化していた団塊の世代にとっては、価値の世代間共有がある程度できており、それが社会を作ってもいた。政治もそれに呼応し、保守政党、自由民主党が一党支配を続けていた。
そんな長い眠りから覚めることが、ようやく起きようといるが・・・これはこの記事とは関係ないのでまたの機会に。
さて、小野沢未来はそんな将来にさしたる希望も持てず、虚無感を抱いており、“世界なんて壊れちゃえばいいのに”と思い、そんなメッセージを携帯で打ち、弟と2人でロボット展を見に来ていたお台場で送信したときに地震が発生する。
立っていることなどできないくらいの大地震、夢中で手すりにしがみつく未来。彼女はトイレに行って帰ってこなかった弟を思い出し、叫ぶ。
揺れがいったん収まり、茫然自失の中で頭をよぎるのは弟のこと。
弟がいるはずの建物は半壊しており、次々と人々が逃げてくる。
未来が余震のことを考えていたかはわからないが、危険な建物の中に弟を探しに進入していった。
そして未来はそこで日下部真理と出会い、弟、悠貴を何とか探し出すことに成功し、その後3人は行動を共にすることになる。
始めのころは“オトナ”の日下部を信用せず、自分たちだけで帰ろうとするが色々な経験をすることで日下部を信用し、帰路を共にすることになる。
弟、悠貴について少し触れておこう。
俗に言う“いい子”であり、小3とは思えない気配りを見せる。といっても見ていて変というものでもない。
キャラクター的には、思春期でちょっと反抗的(むしろ虚無的)の姉に対して、真面目で素直な弟といった感じだ。
姉が抱く虚無感には先ほど記したような社会背景があり、弟はまだそういった自我には目覚めていない年齢で、漠然と将来は明るいものだと思っている。(家族は普通の中流家庭)
そんな姉、未来のもとに訪れた悲劇、大地震。
特に変化の無かった日常が、一瞬にして破壊された非日常に変わったとき、彼女の中で大きな変化が見られた。
“世界なんて壊れちゃえばいいのに”と思った数分後、その壊れた世界でがむしゃらに、自らの命を顧みずに弟を探すほどに変化した動機とは何だったのか。
それはそもそも本当にそんなことを思ってはいなかった、ということで、自分でも分かってはいた。(問題なのは自分自身なのだということが)
地震によって自分に、少なくとも今現在課せられた明確な使命は、姉として弟、悠貴を探すことに他ならなかった。人として、家族として当たり前といえばそうかもしれない。
しかし未来にはそれ以外に重要な動機があった。
弟と一緒でなければ親に合わす顔がない、親は私でなくて弟に期待しているし、弟を見殺しにしては親に捨てられる、こんな思いがこれまでの生活描写から読み取ることができる。(それらしきセリフを言っていたところもあったと思う)
自分だけ生きて帰っても辛いだけ、とも受け取れるこの絶望感は、アイデンティティの欠落という日本的問題にも直面する。
そう、つまり“居場所”である。
物理的な居場所、というよりは“心の安らぐ場所”、といった方が妥当だろう。
アイデンティティを持つことに難儀な日本人にとって切実な問題だ。
そんな姉、未来が信用できない“オトナ”真理と、しっかりした弟、悠貴の3人で帰路を行く道程で、多くの経験をし、次第に自分の思っていたことがとても狭い世界のことであったと気づき始める。
悠貴は道すがら出会ったロボット(オタク)青年と仲良くなり、災害救助で活躍するロボットを見て将来の夢を抱くが、未来はそんな弟を冷めた目でみながらも、うらやましく感じていた。
さて、そろそろまとめに入ろう。
世代共有、このキーワードが大災害と切っても切り離せない関係にあり、こと日本にとっては重要なファクターとなる。
○○世代、とはよく聞くフレーズだが、嗜好や思想などをその時代に生まれた(育った)者の多くが共有しているという意味で使われる。いろいろな条件をつけることで、その範囲は広くもなり、浅くもなる。
高度成長期には、共通する大きな目標があり(戦後復興や電化製品、マイホームを持つなど)人々はそれに向かってがむしゃらに頑張ることができた。
マイホームを持つものが増え、核家族化が進む中で経済はゼロ成長となり、生産から消費の時代へとシフトしていくにつれ、社会は色々な問題を抱えることになる。何かをすることの正当性(動機)が、目標を達成してしまうと非常に薄いものになっていく。
次の目標は敢えて作るか、再帰的にならざるをえなくなる。
そのような状態を資本主義社会の成熟期と呼ぶ。
その社会では価値が多様化し、相対的になり結果、細分化される。
他者とのコミュニケーションは以前よりもスムーズにはいかず、いたるところでディスコミュニケーションが生じる。
そこから生じる不協和音をどう受け止められるか(解釈できるか)によって、自分のとるべき行動が大きく変わってくるだろう。
このような社会では、人が生きていくうえで重要なモチベーションを損なわない対策が必要になる。
先進各国が次々と成熟社会への対応をしていく中で、日本は強固な既得権益受益者によって不可視社会を構築させられていた。
その結果どうなったか。
このアニメの中では、小野沢未来の将来に対する虚無感に現れている。
それが大地震という外からの変化によって、今、この家族の一員として生きなければならない、という明確な動機が生まれた。
災害、とりわけ大災害はそれだけで世代共有できるイベントとなる。これは被災した人はもちろんだが、それによって動く経済が、ボランティア行動が、広い世代に渡って共有できる素地となる。
ただ何もなく、平和に過ごせる世界、それはそれで理想ではあるかもしれない。
しかし、その平和を達成する、または維持する過程で何が重要で必要であるかを知っている社会とそうでない社会では、“生きやすさ”が全く違ってくる。
①『経済・物質的に貧しくてもそこそこ楽しい社会』
②『経済・物質的にそこそこ裕福で、そこそこ楽しい社会』
③『経済・物質的に裕福でも心が満たされない社会』
④『経済・物質的に貧しく、心も満たされない社会』
⑤『経済・物質的に裕福で、かつ心満たされる社会』
①は戦後復興~高度成長期
②は高度経済成長を成し遂げたあたりで、一億総中流といわれた一時期
③と④は並列し、格差が拡がった現代であるが、共通しているのはどちらも心が満たされないというところだ。
⑤は理想郷で、世界でそれを共有することは現実的にありえない。
どんな社会でも格差は存在するし、それが自然である。
問題はそれで生じる綻びを、どのように社会が包摂できるのかが重要となる。
大災害がもたらす悲劇には、それはそれで悼むべき出来事だが実は失ったものや気づかない“蚊帳の外”に気づくことができるきっかけになる、という副次的な機能があるのだ。
2009年08月16日
涼宮ハルヒの憂鬱・エンドレス・エイト
このおよそ2ヶ月間の“同じ”内容放送をどうとらえるべきだろうか。
否定派の多くは、単に同じ話を何度も繰り返すことに苛立ちを見せていた。
噂されていた『消失』を早く見たいから、という人は少なくとも原作を見ている人で、それを見ていない人はとにかくストーリーが進まないことに対する苛立ちが、冷静な判断を狂わせていたのであろう。
そもそも、第一期のテレビ放送もあるべき順番では放送されていない。まったく支離滅裂な放送順といえる。
それこそハルヒのアニメの主調なのであろう。
既成の枠にとらわれない、アバンギャルドな表現。それはアニメーションの物理的技術ではなく、演出という時間を取り入れた“遊び”である。
涼宮ハルヒというキャラクター、そしてそれが繰り広げるお話は、まさにアバンギャルドだ。
通常の(時間軸で)アニメ化をしないところに、この作品がメディアミックス上でも特異な位置を占め、話題をさらっていることに異論はないはずだ。
さて、では何故、これほどまで執拗に繰り返したのだろうか?
これは批評的に色々と考察が出来るところである。
そこには現代日本のアニメが包括する社会的要素、そしてオタク的諧謔がある。
テレビが広告機能をネットに奪われだし、社会が大きく、そして短期間で変化する昨今、アニメを取り巻く環境も大きく変わらざるを得ない。
デジタルメディアの普及によるコピーの問題も頭を抱える問題だ。
アニメーションをめぐる経済のフローチャートは激変しているはずだ。
諸作品のメディアミックス化はそれを象徴している。
そうでもしなければ成り立たないのであろう。
ハルヒに話を戻そう。
エンドレスエイトのアナロジーとして、かの有名なギャルゲーの『AIR』が頭に浮かんだ。
『AIR』はノベルタイプの、ほとんど文章を読むだけのゲームで、3編構成となっており、その最後の章“AIR編”は一の“DREAM編”と話は同じだが、主人公がカラスになっていて、話すこともできない状況におかれている。
ゲームではプレイヤー、アニメでは視聴者にあたるが、先の展開が分かっていながら、自分はどうすることも出来ない、ただ眺めているだけ。
(勿論、通常ゲームには自主選択があるが、アニメというかテレビにはない。この場合ではノベルゲームの形態をとったほとんど選択肢のないゲームをさしている)
受動的で、無意識的に消費する娯楽の中に、現実の自分がそこに介入し、演出の中に取り込まれている。
ゲームを普通にプレイしてクリアーする、アニメを普通に鑑賞して楽しむ、そういったサイクルの中ではこのような状況は生まれない。
このエンドレス・エイトでは、何度も繰り返すことに演出上の意味があり、物語の中では1万数千回繰り返された8月下旬を、8回分の放送に収めた。放送された季節は夏。
先に進まず、もどかしく感じていたとしたら、それは演出家の術中に見事はまっていたことになる。
繰り返し(エンドレス)の物語を、繰り返し見させられている自分、が2ヶ月というリアルな現実時間を持って演出された。何ともアバンギャルドではないか!
しかし、そもそもは、この論議は原作を読んで結末を知っているものに限られる。
そして知っている者は、このエンドレスエイトを、実は結構楽しめたのではないかと思う。
そこにはオタク的観点が多分に必要であると思うが、原作を読んでいる時点で、ほぼその能力は備わっていると思われる。
毎回微妙に、色々なことが変化している。
セリフや服装は勿論、カット割りが全く違う。
マルチアングルではないが、様々な視点で同じシーンが描かれており、突っ込みどころが満載だ。
それは単純に面白い。
映画もアニメも限られた時間という制約の中、ワンシーンを最高の構成にして作り上げる。
そう、ワンカットごと意味があり、重要なのだ。
もちろん、このエンドレスエイトでも同じことだが、既に知っているお話、セリフがあることを前提に、次のエンドレスエイトが展開されている。
途中から見たものは分からないかもしれないが、はじめから続けて見ている人は、その違いに面白さを感じたはずだ。
オタク的視点がそれにプラスαしていることは、言わずもがな。
さて、AIRを引き合いにしていたが、それはただ見ているだけしかできない、現実の視聴者である自分と、カラスとなってどうすることもできないAIRの主人公、つまりクリ
ックをし続けるプレイヤーが、同じ心理状況であると思ったからだ。
いつしか人々は考えることが面倒になり、心地よいデータベース消費に、盲目的に満足していることになるのではなかろうか。
『涼宮ハルヒの憂鬱』がそういった社会的側面を意識して作られているかはわからないが、少なくともそう考えることが可能ではある。
たかがサブカルチャー、されどサブカルチャー。
色々な考え方ができるものである。
2009年05月13日
涼宮ハルヒの考察 ラスト
テレビの再度放送も好調のようで、ハルヒブームは新たなファン層を取り込んでいきそうです。
さて、ここでも4回ほどハルヒについて考察してきましたが、今回で最後にいたします。
最後はアニメーションのハルヒについて。
ご存知の通り、アニメーションの制作は京都アニメーション、京アニです。
高い評価を得ているプロダクションですね。
ノベルのイラストは、いとうのいぢさんで、アニメの作画は池田晶子さん。どちらもハルヒを通してビッグネームになった感じです。
漫画が原作のアニメ化と同様、既にオリジナルが存在する作品のアニメ化は、そのギャップや声優さんの相性が作品の良し悪しを判断する基準の一つになります。演出も重要ですが、やはりビジュアルの果たす役割は多大でしょう。先の2人のコラボは大成功であった、と結果論ですが言えます。
何か一つがかみ合わないと、魅力を失ってしまうアニメは非常にシビアな世界ですね。
メディアミックスが当たり前となり、オリジナル作品が様々なジャンルに“移植”されていく、もしくは今はあらかじめメディアミックスとして売り出すものも多いかもしれません。
その中でのアニメーションの位置はどういったものなのでしょうか。
オリジナル(がある場合)を重視したつくりなのか、それぞれのメディアに特化したものに変えるのか、色々と手段があり、受け手もまた、何を意識して受け取るのかで楽しみ方が変わってきます。
そんな中で特異な例であるのは“ガンダム”でしょう。ガンダムと冠した多くの作品がありますが、もはやファーストの歴史を引きずるのではなく、単なる記号として使用されるようになりました。それはそれで魅力ある世界を描き、成功しているといえましょう。
ハルヒのアニメーションは原作であるノベルを尊重し、動画としての魅力を最大限に出すように作られているように感じます。
ですのでこれらは親和性が高く、どちらから入っても違和感なく楽しめるのかと思います。
最後に、ハルヒの声優さんが集まってのライブ(イベント)が『涼宮ハルヒの激奏』はDVDにもなっており拝見しましたが、この3次元世界をすんなり受け入れることができました。
2次元キャラクターが3次元声優さんを通して新たな魅力を提示しており、ますますアニメーションという表現、そしてそれが持つ潜在的な魅力は開花していくのだと感じました。
2009年04月07日
涼宮ハルヒの考察 その3
と言っても“再放送”でした。
が、少し違うようです。
私の予想通り、再放送は放送順の正しい順番です。
そして私はこの後、第2期が始まると思っています。
勝手な想像に過ぎませんが、ハルヒという巨大市場を考える上で、一年単位での戦略を考えると妥当な判断なのかと思います。
私がハルヒを見出したのは遅く、既にブームは去っていたときでした。
しかし、それは非常に衝撃的でした。
それは私が経験したことのない作品であったからです。
しかし、それはYahoo動画のパックで見たもので、順番は正等なものでした。
テレビ放送の順番はかなりめちゃくちゃになっていたということで、これはノベル支持者に対する配慮なのか解りませんが、
14話という少ない放送ながら、かなりアウトローなことをやっていたのかな、と思う次第です。
とまれ、私は正しいストーリー順で見たことになります。
やはりこれが自然に入り込みやすいことは明白です。
ゆえに今回は一度正しい順序で再放送し、後に第2期に行くのでは、と勝手に思ってしまう次第です。
期待度のほうがありますが、単に再放送だけで、ここまで話題にはしないでしょう。
何かやってくれる、そんな期待がハルヒにはもてます。
SOS団はそんなつまらないことはしないと信じています(笑)
ノベルの方は今、5巻を読んでいるところです。
第2期として噂される、『涼宮ハルヒの消失』はシリーズ中、確かに一番読むペースが早いように感じます。
連続ストーリーものとしては秀逸であると思います。
既にキャラが確立されたハルヒ世界が、奇想天外ストーリーを展開する、この消失は、アニメとしても十分な魅力があります。
今後の展開に注目しましょう。
2009年03月28日
機動戦士ガンダムSEED
ハルヒの考察は一時お休みして、最近全話見て、印象深いこの作品について考えたいと思います。
今となっては結構古い作品ですが、この作品は今もって魅了する要素がちりばめられています。私はファースト、Z,ZZ、逆襲のシャア、ターンエーと、ポケットの中の戦争を見たぐらいで、全シリーズ見ているわけではありません。
SEEDには明らかにファースト、Zを意識した造りになっています。
ニュータイプ、強化人間といったキーワードが頭をよぎります。
そしてその時代にはなかった(と思われる)要素が加わり、多くの人を惹きつけるに至ったと思われます。
それは意識されたBL要素と萌え要素です。
そしてそれは即ち、オタクの女子、腐女子をターゲットに入れた作品であるということです。
ファーストガンダムは明らかに男の子のロマンに訴える作品であったが、Zでは恋愛を大きく取り入れ、未来戦争における男と女の関係性をフューチャーし、現代社会の問題でもある、メンタル部分にも深く踏み込んだ画期的な作品で、今もその人気は不動のものとなっています。ブルーレイもいち早く製品化されました。
それは女の子にも少なからず影響を与え、後のロボットアニメの女の子市場を開拓したといっても過言ではないでしょう。非常にナイーブな作品でした。私も大好きな作品です。
そんなファーストからZへの流れを組み、現代に蘇らせた作品がSEEDではないでしょうか。
ストーリー、関係性は非常に解りやすく、無駄のない作りであったと感じます。
ファースト、Zは大きな戦略的には見えない部分が多いか、説明不足な感じがしますが、SEEDはその点わかりやすい。
現代社会を覆う、疑心暗鬼の連鎖、これを見事に現したのは“ひぐらしのなく頃に”であるが、ガンダムは未来戦争という設定の中で、見つからない、見つけられない“正しきこと”を問うている。
これは資本主義社会の成熟した社会にコミットしたテーマであろう。
SEEDも例外なくこのテーマを全面に押し出している。
登場人物それぞれが抱える属性(ナチュラルやコーディネイター)、科学技術による生命の人為的操作という新しい要素を取り入れながら、タブーを現実化し、その人間の業の深さを問う。
宇宙の利権が現実化したとき、再び戦争という文字がリアルになることはありえる。
今、宇宙は誰のものでもない。
コロニーの誕生後には現実化するであろう、その利権、これが元で繰り返される人間の悲劇を描くのがガンダムだ。
そんなテーマにロマンと萌えとBLまでをも組み込むこの巨大なシリーズは、いつの時代でも人を惹きつける力があるのだろう。
2009年03月18日
涼宮ハルヒの考察 その2

前回は涼宮ハルヒ、その人物について現代社会におけるカタルシスについて考えてみました。
今回は、原作のノベルハルヒを通して、その作品の魅力について掘り下げて考えてみたいと思います。
そもそもハルヒはノベルが原作です。
谷川流氏が角川スニーカー大賞を受賞した作品で、審査員の評価もかなり高かったようです。
そしてそのまま続編も決まり、ショートストーリーも発表しながら、現在に至っています。
合わせて9巻、出ています。
アニメから入った私が、ノベルを読んでの率直な印象は、面白い、でした。
アニメとの違和感がなく、すんなりその世界を楽しむことができました。
逆であったらどう感じたかは、経験のしようがないので分かりませんが、この作品のアニメとノベルのシンクロ率は高いのではないかと思います。
それは何故か、というのを少し考えてみました。
大きな要因の一つはキャラの差異であると思います。
ご存知のように、この世界の主だった人物は、
ハルヒ=神?
長門=宇宙人
みくる=未来人
古泉=超能力者
キョン=一般人
という設定で、それぞれがまったく違う世界の存在となっています。
そしてそれぞれがまったく別の性格であり、同じタイプの人間?はいません。
そして一般人がキョンだけなので、不条理世界もすんなりと受け入れられ、謎は謎として解決できなくてもそれ自体が独立したキャラクターとなって楽しむことができます。
普通の人間の学園ものであれば、どこかでフィクション性を感じ(もちろんそれはそれで受け止め楽しむわけですが)、その度合いがあまりにも現実を無視していると違和感を感じます。
ハルヒは『涼宮ハルヒの憂鬱』という大きなフィクションの中に上記5人の独立したフィクションが混在することで、メタ属性があります。
そしてこれらの人物が織り成す物語は、学園ものなので複雑にならず、すんなり受け入れられることから、多くの人に指示されたのではないかと考えます。
ノベルは挿絵以外はヴィジュアル要素がないので、たとえば長門はほとんどしゃべらないが、アニメだと写りこんでいます。
ノベルではキョンの状況描写で終わることが多い長門が、それでも存在感を大きくしているのが、それぞれのホームである異世界の存在だ。性格だけではなく、そちらの世界(他人から見ればフィクション)があるために、キャラの存在感は非常に大きくなるのだと思います。
ノベルは絵がない分、楽しむには想像力が必要ですが、それも上記のようなことから、容易にその世界に入っていけることが、ここまで読まれている由縁ではないでしょうか。
アニメが相当のレベルの高い作品に仕上がっていながら、ノベルが色褪せない。
その本質は設定とキャラ立ちがしっかり組み合わさっているからであると思います。
2009年02月28日
涼宮ハルヒの考察 その1

先の記事はハルヒ好きの感想的な内容となってしまったので、これから数回、もう少し深く考えてみたいと思います。
まずは劇中人物、涼宮ハルヒに惹かれるのは何故か、という大きな主題で考えたいと思います。
涼宮ハルヒは何者なのか、という問いには数々の回答がありそうですが、世界の行く末を握っているが、それを自覚していない天真爛漫な女子高生、というのが順当な回答になるかもしれない。
退屈を嫌い、常に楽しいことを求めているが、それはあくまで自分が中心人物になって楽しむことが条件。
そうして思っていることがその通りになっていくが、自分自身はそれが自分の“力”で起きていることを知らない。
そしてイライラが募ると“閉鎖空間”を生み出し、怪物が破壊活動を行う。
こんな人物が実際にいたら・・・とんでもないでしょうね。
自分が思っていても中々現実にできないこと、つまりは不満でありそれをこらえることでストレスが発生する。
現代社会は高ストレス社会といわれています。
そう、ハルヒにはカタルシスの効用があるのです。
ハルヒに限らず、サブカルチャーには少なからずカタルシスの効用があります。
社会で実現不可能なことを、他の媒体によって擬似体験することによってストレスを取り除くことができます。
ecri-エクリ-がサブカル推進掲げる理由の一つには、こういったことも含まれているのです。
システム化し、複雑になる現代社会において、サブカルを真剣に考え、そして正当に認知されることは重要と考えます。
さて、そんなハルヒも単なる超常的なお話として、現実とあまりにも乖離した構成であったなら、ここまで人気を博することは無かったでしょう。これは前の記事でも書きましたが、『涼宮ハルヒの憂鬱』には理屈として納得できるだけの構成力があり、アニメ的不自然な感じが少ない。それはキョンの一人称という形で語られてはいるが、含蓄に富んだ語彙と教養によって、不可思議世界を彼とともに共有することに成功しているからであると思う。
また、天真爛漫に振舞うハルヒにもストレス空間として“閉鎖空間”があることで、どんなに自由に振舞っても決して満足することはない、というメッセージとして受け取ることができる。欲望には切がないということでしょう。
そういう部分も共感できるところであると思います。
つづく
2009年02月18日
涼宮ハルヒの憂鬱


涼宮ハルヒの憂鬱
今回は前記事の『ひぐらしのなく頃に』に引き続き、ビッグなタイトルについて語ってみたいと思います。
サブカルを少しでも受容している人の中で、『涼宮ハルヒの憂鬱』という名称を聞いたことが無い人は恐らくいないのではないでしょうか?
今でこそメディアミックスによってあらゆるジャンルに登場していますが、もともとはライトノベルと呼ばれる、小中高生向けの活字媒体での登場でした。角川スニーカー大賞受賞という華々しいデビューを果たしたこの作品は、その後『涼宮ハルヒの○○』という形で続編が刊行され、ノベルで500万部を超えるヒット作となりました。
何がここまで支持されているのでしょう?
学園、SF、セカイ系といった要素は珍しくもないですし、キャラクターのかわいさや特異さだけではここまでのヒットには至らないでしょう。
私が考えるには、ハルヒの魅力はあの独特の一人称にあると思います。
劇中の重要人物であるキョンの一人称表現がノベルやアニメにも共通して描かれ、世界観を壊すことなくその魅力を醸し出している。
一人称はともすると違和感を感じてしまうことが多い表現であると思います。
すべてその人物の視点、思考で進行するわけですから、自由度が高い反面、話が見えてこなかったり、話を進めるがために予定調和的に強引に進めることもできてしまう。
作者の谷川流氏はその辺りを絶妙に表現していると感じる。
確かに、高校1年にしては知りすぎていはしないかい?と思うところもあるが、テンポのよさとキャラによって自然と受け入れることができる。
突拍子も無い話でありながら、妙に“リアル”を感じることができるのも、その構成力が高いからであろう。宇宙人、未来人、超能力者、そしてそれらを無意識に支配する“神”がいて、普通の高校生が巻き込まれている。
そこに“リアリティ”を感じさせるのは、それ相応の構成力があってこそと思う。
ジブリ作品にも共通する妙な普遍性を感じてしまうのは、私だけではないはずだ。
そしてそのしっかりとした土台の上に、多くの“萌え”要素がちりばめられ、作品の魅力を不動のものにしていると感じます。
また、アニメは声優陣の充実、キャッチーな楽曲、エンディングのダンス、劇中歌のリアルさなども大いに作品を肉付けしている。
京都アニメーションの存在も忘れてはならないでしょう。
そんな『ハルヒ』のテレビ放送が決まったそうです。
再放送なのか、第2期かは定かではないですが、楽しみですね。
2009年01月26日
ひぐらしのなく頃に


このビッグなタイトルを語るに当たって、私はアニメしか材料を持っていません。
しかしそれでも書かずにはいられない、“何か”がこの作品にはあるようです。
ここではネタバレ的な話はせずに、そこから感じ取れるテーマ、メッセージを考えたいと思います。
この作品はご存知の方も多いと思いますが、コミケにて販売された同人ゲームが初出です。
一年に2回、夏、冬のコミケで各編を2002年から2006年にかけて、「ひぐらしのなく頃に」「ひぐらしのなく頃に・解」として発表している。
アニメ化はその後で、2006年~2007年にかけて放送していました。
今現在でもメディアミックス化は進み、新刊やOVAなどが予定されています。
さて、本題に入りましょう。
この一連のけっこう長いお話には、ミステリーとしての楽しみもさることながら、現代社会に密接な人間的テーマがあり、それは様々な場面でメッセージとして受け止められます。それはシンクロするキャラによって違ってもくるでしょうし、全体としてのメッセージ性として感じることもできます。
いろいろな要素が詰まっている、ということでしょう。
ミステリー要素として、いわゆる“殺人”があり、その残虐性が問題視もされましたが、それは作品の端的部分をとって言っているだけで、物語全体を通して見たものには滑稽に思える現象でしょう。「ひぐらし」に限らずこういったことはしばしば起こります。それには日本社会特有の慣習がありますが、この話はここでは控えたいと思います。
物語を通してのテーマは、私が感じたものですと“信じること”です。
これは道徳的なものではなく、“信じる”ことに関する多面的な現象です。
信じることで起きる“その後”、信じないことで起こる“その後”、それは“もし(if)”の世界であり、その連鎖によっては推量できる範囲が著しく低下します。
“疑心暗鬼”の異常なまでの展開の背景には、高度成長を終え、モノ的に満たされた世界、つまり現代社会における複雑な問題系が絡んでいます。
それがキャラ設定と描写(演出)によって、より視聴者の内側に浸透し、結果“同情”し、一体となる。
自己の思いを投射できるところに、アニメをはじめとするサブカルチャーの機能がありますが、それが多様な社会の中でも共有できるテーマであるかが、作品のヒットにつながるのではないでしょうか。
多様な嗜好、分化した社会であっても共有できること、それは実はシンプルなもので、人間の性と呼ばれる類のものではないでしょうか。
それをミステリーの中に流し込み、巧みに紡ぎあげた「ひぐらしのなく頃に」は多くの人を惹きつけたのだと思います。
“信じる”、“仲間”というキーワードに対して、現代社会はひどく臆病になっています。本音と建前の違いに辟易している。しかし反面ひどく渇望してしまう。それが人間の性でもあるからです。この物語はそんな誰もが抱いている“心の闇”にもスポットを当てているように私には思えた。
「ひぐらしのなく頃に」はミステリーという形態を借りた、ヒューマンドラマです。そして何よりもメインカルチャーでは出せない“萌え”がある。販売はコミケがメインであったことも非常に面白い。いわゆる同人作品ということが、独特の世界を作り上げたといえるでしょう。この部分に企業資本が入ってきたら面白さは半減してしまったに違いない。
この制作、発表方法は次作「うみねこのなく頃に」でも引き継がれています。
さて、今後はオリジナルであるWindows版をプレイしてみようと思います。
2008年12月20日
藤子不二雄さんのアニメ
今回は誰もが知っている藤子不二雄さんの漫画を取り上げたいと思います。
“誰もが知っている”と書きましたが、これが重要です。
嗜好の多様化、細分化の中で『ドラえもん』はゴールデンタイムの放送を長年維持している得意な作品です。
これと同じ状況の作品は他にも『ちびまる子ちゃん』『サザエさん』『クレヨンしんちゃん』などがありますが、『ドラえもん』同様の共通する特徴を持っています。
もうお分かりの方もいると思いますが、これらの番組に共通のものは人間の“普遍性”です。
とりわけ藤子不二雄さんの作品は、ドラえもんに限らず似たような登場人物で構成した作品も同じく“普遍性”を持っています。
『ドラえもん』を構成する登場人物はおなじみの、ドラえもん、のび太、しずかちゃん、ジャイアン、スネ夫で、『キテレツ大百科』では、コロ助、木手英一、みよちゃん、トンガリ、ブタゴリラ等々。
この4タイプのキャラクター(ドラえもんやコロ助を除く)が普遍性を持ち、誰が見ても、誰と見てもそこそこ楽しめる作品として存在し続けることができたと考えられます。
ここで注目するのは“女の子”の存在です。男のキャラはいくつかあるのに、女の子は基本一人です。これは日本の戦後の家父長的社会を如実に表していると思います。
現在、この社会は消えつつあります。資本主義社会の進展やそれに伴う社会構成の変化で、女性の社会的地位の向上、社会進出が促進され意識も大きく変わりつつあります。
漫画やアニメの細分化はこれを物語っています。かつての男性は少年漫画、女性は少女マンガを読んでいましたが、今では多くの女性が少年マンガを読んでいます。その逆はあまり昔と変わらないこともまた社会変化をよく表しています。
さて、ではそんな中でも『ドラえもん』が支持されるのは何故でしょうか。
老若男女を問わないものとしては、ドラえもんのキャラクターとしての魅力。
世代別だと、団塊の世代は家族幻想の投影であり、新人類はかつての明るい未来への郷愁、ロスジェネはよりリアルなノスタルジーと不思議な安心感があると思います。
現代の子供や20代前半は社会性を離れて、キャラクターの細部や何気ないワンシーンへの異常な興味などで、全体を見るというよりも部分部分で“消費”していると思われます。
これはドラえもんに限ったことではなくて、各々の作品でも同じ傾向があります。
即物的なこの傾向は消費社会にも大きな変容が見られます。
ともかくも、これほどまでに多様化し、消費されていく現代社会において、見方は違えど世代間共通できる作品は“意味”ある“強度”を提供してくれると思います。
2008年12月12日
漫画の受容の形態
漫画の歴史は古い。
読売新聞などで行われている漫画大賞などは、いわゆる風刺的な漫画であり、一コマで表現する作品である。
そんな漫画のコマが増え、現在のストーリーものになるのにはさして時間はかかっていない。
漫画の形態の変化と社会変化の関係性は、文学のそれとそれほど変わらない。
社会が動いてそのシステムや成員が変わることで、何を欲するか、そしてどの程度の層が大勢を成すのかで、サブカルチャーは変容する。文学は常に教育の場にあって、サブカルとは一線を画していたが、昨今その境界は微妙になりつつある。
いわゆる古くは江戸川乱歩のミステリー、現在はライトノベルを純文学と切り離そうとする動きはあるが、乱歩が現在、文学と言ってもそれほど違和感がないのを見ると、ラノベも多様化の中で評価が変わるのは予測可能なことだ。
それよりも旧来の文学というハイカルチャー的差別が、今後平準化していくことになるだろう。
その動きの中で、漫画の位置も大きく変わってきている。
漫画は文学と同じく、表現手段の一つに過ぎない。
それが長らく教育のステージにあったものと、大衆娯楽として親しまれたものの違いで、差別されていた時代が終わったのだと思う。
しかしそれは、漫画が文学に近づいたのではなく、文学の持つ前提条件(大きな世界での共通認識)が変化したことで、文学のテーマが大衆化し、漫画と変わらなくなったのではないかと思う。
その分、漫画が扱うテーマは拡がり、高い文学性を持った作品も生まれたが反面、大衆嗜好の細分化によって無数の作品が氾濫することになる。これは90年代に入ったころから顕著になってきたように思う。
週刊少年ジャンプの発行部数が、週刊少年マガジンに抜かれたとき、そのあたりが大きな時代の変化であったような気がする。
昨今の漫画とアニメの氾濫は、それだけ人々の嗜好が細分化したことを意味するが、このことが持つ性格も多用だ。
マイノリティ同士の交流はインターネットを介して、彼らを承認する。
これからの漫画は何を意識して展開していくのか?
出版社の意思を介さない、細分化した自主的出版が増えるのか、それとも出版社が変わっていくのか、それは分からない。
ただ、確実に次世代の消費の形態は変わっていくであろうし、今はその過渡期かもしれない。
そのスピードはコンピュータの発達と同じく、驚異的なスピードである。
ちょっと疲れてしまうよね・・・消費の圧力に。
2008年11月16日
D・M・C
デトロイトメタルシティ、通称DMCが人気だ。
ヤングアニマルといういささかマイナーな雑誌のヒット作であるこの漫画がどうしてここまで受け入れられたのであろうか。
普通にギャグ的要素も面白いのは確かであるが、それだけではここまでヒットはしないだろう。何せ扱っているのがデスメタルである。デスメタルがそれほど人口に膾炙しているとは思えない。
作品がヒットする背景には多くの人が共通する何か、が必要だ。
この漫画ではデスメタルとは無関係に感情移入できる要素があるということであろう。
話は少しそれるが、へヴィメタルを愛するものは基本、シャイな奴が多く、その性格とのギャップがしばしば指摘されるものだ。
演劇などの変身願望とは違ったもので、ナルシシズム的な代謝機能が大きいのではないかと思う。他人の評価よりも自分自身の内向的な部分へのジレンマをそのギャップで埋めるのだ。それが先の考察でも出てきた、メタルの“自意識”だと思う。
この漫画の主人公もそんなギャップを無意識的に消化することで、自分自身を保っている。外的要因が彼をデスメタルへと向かわせたかと思いきや、無自覚的にそこから逃れられなくなるというジレンマが、多くの人の共感を呼ぶのだと思う。
ギャグの裏に潜む現代的テーマが根っこにあり、かつメタル人にも理解される面白さが備わっている。
かなり下ネタ満載の漫画なので、心して見ると良いです。

