2009年01月26日
ひぐらしのなく頃に


このビッグなタイトルを語るに当たって、私はアニメしか材料を持っていません。
しかしそれでも書かずにはいられない、“何か”がこの作品にはあるようです。
ここではネタバレ的な話はせずに、そこから感じ取れるテーマ、メッセージを考えたいと思います。
この作品はご存知の方も多いと思いますが、コミケにて販売された同人ゲームが初出です。
一年に2回、夏、冬のコミケで各編を2002年から2006年にかけて、「ひぐらしのなく頃に」「ひぐらしのなく頃に・解」として発表している。
アニメ化はその後で、2006年~2007年にかけて放送していました。
今現在でもメディアミックス化は進み、新刊やOVAなどが予定されています。
さて、本題に入りましょう。
この一連のけっこう長いお話には、ミステリーとしての楽しみもさることながら、現代社会に密接な人間的テーマがあり、それは様々な場面でメッセージとして受け止められます。それはシンクロするキャラによって違ってもくるでしょうし、全体としてのメッセージ性として感じることもできます。
いろいろな要素が詰まっている、ということでしょう。
ミステリー要素として、いわゆる“殺人”があり、その残虐性が問題視もされましたが、それは作品の端的部分をとって言っているだけで、物語全体を通して見たものには滑稽に思える現象でしょう。「ひぐらし」に限らずこういったことはしばしば起こります。それには日本社会特有の慣習がありますが、この話はここでは控えたいと思います。
物語を通してのテーマは、私が感じたものですと“信じること”です。
これは道徳的なものではなく、“信じる”ことに関する多面的な現象です。
信じることで起きる“その後”、信じないことで起こる“その後”、それは“もし(if)”の世界であり、その連鎖によっては推量できる範囲が著しく低下します。
“疑心暗鬼”の異常なまでの展開の背景には、高度成長を終え、モノ的に満たされた世界、つまり現代社会における複雑な問題系が絡んでいます。
それがキャラ設定と描写(演出)によって、より視聴者の内側に浸透し、結果“同情”し、一体となる。
自己の思いを投射できるところに、アニメをはじめとするサブカルチャーの機能がありますが、それが多様な社会の中でも共有できるテーマであるかが、作品のヒットにつながるのではないでしょうか。
多様な嗜好、分化した社会であっても共有できること、それは実はシンプルなもので、人間の性と呼ばれる類のものではないでしょうか。
それをミステリーの中に流し込み、巧みに紡ぎあげた「ひぐらしのなく頃に」は多くの人を惹きつけたのだと思います。
“信じる”、“仲間”というキーワードに対して、現代社会はひどく臆病になっています。本音と建前の違いに辟易している。しかし反面ひどく渇望してしまう。それが人間の性でもあるからです。この物語はそんな誰もが抱いている“心の闇”にもスポットを当てているように私には思えた。
「ひぐらしのなく頃に」はミステリーという形態を借りた、ヒューマンドラマです。そして何よりもメインカルチャーでは出せない“萌え”がある。販売はコミケがメインであったことも非常に面白い。いわゆる同人作品ということが、独特の世界を作り上げたといえるでしょう。この部分に企業資本が入ってきたら面白さは半減してしまったに違いない。
この制作、発表方法は次作「うみねこのなく頃に」でも引き継がれています。
さて、今後はオリジナルであるWindows版をプレイしてみようと思います。
2009年01月11日
メディアミックスと日本社会
漫画が原作のアニメーション、
アニメがオリジナルの漫画、
ノベルズが原作の漫画やアニメーション、
ゲームがオリジナルのアニメや漫画などなど、巷には一つの作品がメディアミックスという形で様々な顔を見せています。
ファンにとってはうれしいことかもしれませんが、この現象は何が“オリジナル”なのかがそれほど重要でなくなってきたことも意味します。
しかし2次創作は少し事情が違うようで、メディアミックスとは別次元に位置している。
各メディアでそれぞれの魅力があると思いますが、失望もあるでしょう。
全てのメディアを見ている人はどのくらいいるのかわかりませんが、それほど多くはないでしょう。自分に合ったメディアで楽しむ、つまり選択肢が増えたといった感じでしょう。
さて、このようなメディアミックスが受け入れられる現象は、日本の社会を表す指標ともなります。オリジナルの消失は、“権威”の消失とも言えることで、一人の作者が作る作品からプロダクションなど全体で作り上げる(販促含む)、組織化された制作環境が背景にあるでしょう。そしてそれを受け入れる側も変化が生じていることにあります。
誰(個人)が作ったか分からないと不安だったり、傾倒できないという感覚であった時代から、それが何であっても“面白い”と感じるものに対し、消費行動が素直になったとも言えます。
このことは世の中を覆っていた共通前提が崩れたことで、各自の欲求を隠さずに満たすという行動が可能となり、それは消費の新たな局面を表しているといえましょう。
秋葉原はそういった意味でも社会の変化の端緒をいち早く表出する場であると思います。
今後の秋葉原、未知数、未規定だからこそ面白い、と思えるのです。

