2009年09月23日

東京マグニチュード8.0





フジテレビ系、「ノイタミナ」枠で7月~9月まで放送されていたオリジナル原作のアニメ、『東京マグニチュード8.0』

このアニメからは、リアルなテーマだけに、お決まりの感動ストーリーとは別に、日本における社会的諸問題を随所にみることができる。

それらは、およそ次の4つに分けられる。
1、 災害に関しての危機意識(防災意識)
2、 人間関係(親子、兄弟、他人)
3、 将来の希望
4、 世代共有体験

巨大地震という大惨事は、大都市東京の破壊をもたらし、多くの人命を奪った。
しかし、本当に失ったものは何か?それによって得られたものは何か、浮き彫りになったものは何か、現代日本の社会を覆う様々な問題を読み取ってみたいと思う。

災害に関しての危機意識(防災意識)
日本は地震大国であることは誰もが知っている。
これらは定期的にテレビ報道や特集番組などで言われていることである。
しかし、実際大地震が起こったとき、どういった行動をするべきか、などを具体的にイメージできる人は少ない。
阪神大震災や新潟地震などを経験している人は別で、それらに関わった人も恐らくある程度は意識できるかもしれない。

東京は昔から大きな地震が定期的に起こることが分かっている。人口が集中し始めた江戸時代から、破壊と再生を繰り返してきた街でもある。
しかし、一番新しい関東大震災からはもう80年以上が経っており、急速な高度成長を遂げて世界的な大都市へと変わった現在は、過去の街とは大きく異なる。
成長の過程でこの大震災を意識しなかったわけではないだろうが、首都東京に集中する人口に伴う経済的需要は、いつ来るか分からない地震を意識などせずにわずかな隙間も見逃さず雑居ビルを建てさせた。下町の密集度合いも大きな災害をもたらす。

現在の東京都の人口はおよそ1300万人!人口密度も世界上位である。
さらに日本は東京に国の中枢機能や会社の本社などが集中している。臨海都市に埋立地が多いことも不安材料の一つだ。この話ではお台場での被災が描かれている。
不安要素を書けばきりがないが、このアニメが防災意識について考えるきっかけを少しは与えたかもしれない。

さて、後の残り3つはかなり密接に関係する問題なので、人間関係、将来の希望、世代共有体験はまとめて考察したいと思う。

そもそも現代の日本とはどんな社会なのだろうか。
私なりの視点で簡単に説明しておこう。
日本は冷戦下、核の傘のもとで高度成長を遂げて社会は成熟し、世界の資本の流れは実態経済から金融経済へと移行した。
グローバル化が進み、社会の枠組みも大きく変化していたが、それは専ら“世界”であり、日本は旧態依然として、新しい時代に適応する社会システムを構築することができなかった。
その“膿”が出始めたのがバブル崩壊後の90年代、そして21世紀の現代まで急場しのぎの政策で“古きよき時代”が保守されてきた。
長い物には巻かれろ、という暗黙の同意が、真実を覆い隠して見せかけの平和を享受していた、ということであろうと思う。

このアニメの主人公兄弟は、姉が小野沢未来、中学1年、弟が悠貴、小学3年、震災地で出会うバイク便ライダーの女性は日下部 真理、32歳でシングルマザー。
思春期の未来は、母親の希望だった私立中学へ進学したが、自分で決めた進路ではないため特に目標もなく、将来に対して希望を持ってはいなかった。(ここに教育関わる諸問題があることは言うまでもない)
基本が暗記教育で、自ら考え、実行し、リスクを体験するということが、学校でも家庭でも出来ていないために、子供は体裁を装う“オトナ”に対して大きな疑念を抱くことになる。言っていることとやっていることが違うことを、子供は敏感に感じ取っているのだ。

良い学校に行くことがそれだけで価値となる、その後にある社会は考えられていない。というよりは、年功序列の終身雇用で回っていた時代はそれでもよかった。良い学校に行って、良い会社に入って、死ぬまで安心という妄想が一時的にも現実化していた団塊の世代にとっては、価値の世代間共有がある程度できており、それが社会を作ってもいた。政治もそれに呼応し、保守政党、自由民主党が一党支配を続けていた。

そんな長い眠りから覚めることが、ようやく起きようといるが・・・これはこの記事とは関係ないのでまたの機会に。

さて、小野沢未来はそんな将来にさしたる希望も持てず、虚無感を抱いており、“世界なんて壊れちゃえばいいのに”と思い、そんなメッセージを携帯で打ち、弟と2人でロボット展を見に来ていたお台場で送信したときに地震が発生する。
立っていることなどできないくらいの大地震、夢中で手すりにしがみつく未来。彼女はトイレに行って帰ってこなかった弟を思い出し、叫ぶ。

揺れがいったん収まり、茫然自失の中で頭をよぎるのは弟のこと。
弟がいるはずの建物は半壊しており、次々と人々が逃げてくる。
未来が余震のことを考えていたかはわからないが、危険な建物の中に弟を探しに進入していった。
そして未来はそこで日下部真理と出会い、弟、悠貴を何とか探し出すことに成功し、その後3人は行動を共にすることになる。

始めのころは“オトナ”の日下部を信用せず、自分たちだけで帰ろうとするが色々な経験をすることで日下部を信用し、帰路を共にすることになる。

弟、悠貴について少し触れておこう。
俗に言う“いい子”であり、小3とは思えない気配りを見せる。といっても見ていて変というものでもない。
キャラクター的には、思春期でちょっと反抗的(むしろ虚無的)の姉に対して、真面目で素直な弟といった感じだ。

姉が抱く虚無感には先ほど記したような社会背景があり、弟はまだそういった自我には目覚めていない年齢で、漠然と将来は明るいものだと思っている。(家族は普通の中流家庭)

そんな姉、未来のもとに訪れた悲劇、大地震。
特に変化の無かった日常が、一瞬にして破壊された非日常に変わったとき、彼女の中で大きな変化が見られた。
“世界なんて壊れちゃえばいいのに”と思った数分後、その壊れた世界でがむしゃらに、自らの命を顧みずに弟を探すほどに変化した動機とは何だったのか。
それはそもそも本当にそんなことを思ってはいなかった、ということで、自分でも分かってはいた。(問題なのは自分自身なのだということが)
地震によって自分に、少なくとも今現在課せられた明確な使命は、姉として弟、悠貴を探すことに他ならなかった。人として、家族として当たり前といえばそうかもしれない。
しかし未来にはそれ以外に重要な動機があった。
弟と一緒でなければ親に合わす顔がない、親は私でなくて弟に期待しているし、弟を見殺しにしては親に捨てられる、こんな思いがこれまでの生活描写から読み取ることができる。(それらしきセリフを言っていたところもあったと思う)
自分だけ生きて帰っても辛いだけ、とも受け取れるこの絶望感は、アイデンティティの欠落という日本的問題にも直面する。
そう、つまり“居場所”である。
物理的な居場所、というよりは“心の安らぐ場所”、といった方が妥当だろう。
アイデンティティを持つことに難儀な日本人にとって切実な問題だ。

そんな姉、未来が信用できない“オトナ”真理と、しっかりした弟、悠貴の3人で帰路を行く道程で、多くの経験をし、次第に自分の思っていたことがとても狭い世界のことであったと気づき始める。
悠貴は道すがら出会ったロボット(オタク)青年と仲良くなり、災害救助で活躍するロボットを見て将来の夢を抱くが、未来はそんな弟を冷めた目でみながらも、うらやましく感じていた。

さて、そろそろまとめに入ろう。
世代共有、このキーワードが大災害と切っても切り離せない関係にあり、こと日本にとっては重要なファクターとなる。
○○世代、とはよく聞くフレーズだが、嗜好や思想などをその時代に生まれた(育った)者の多くが共有しているという意味で使われる。いろいろな条件をつけることで、その範囲は広くもなり、浅くもなる。

高度成長期には、共通する大きな目標があり(戦後復興や電化製品、マイホームを持つなど)人々はそれに向かってがむしゃらに頑張ることができた。
マイホームを持つものが増え、核家族化が進む中で経済はゼロ成長となり、生産から消費の時代へとシフトしていくにつれ、社会は色々な問題を抱えることになる。何かをすることの正当性(動機)が、目標を達成してしまうと非常に薄いものになっていく。
次の目標は敢えて作るか、再帰的にならざるをえなくなる。
そのような状態を資本主義社会の成熟期と呼ぶ。
その社会では価値が多様化し、相対的になり結果、細分化される。
他者とのコミュニケーションは以前よりもスムーズにはいかず、いたるところでディスコミュニケーションが生じる。
そこから生じる不協和音をどう受け止められるか(解釈できるか)によって、自分のとるべき行動が大きく変わってくるだろう。

このような社会では、人が生きていくうえで重要なモチベーションを損なわない対策が必要になる。
先進各国が次々と成熟社会への対応をしていく中で、日本は強固な既得権益受益者によって不可視社会を構築させられていた。

その結果どうなったか。

このアニメの中では、小野沢未来の将来に対する虚無感に現れている。
それが大地震という外からの変化によって、今、この家族の一員として生きなければならない、という明確な動機が生まれた。

災害、とりわけ大災害はそれだけで世代共有できるイベントとなる。これは被災した人はもちろんだが、それによって動く経済が、ボランティア行動が、広い世代に渡って共有できる素地となる。

ただ何もなく、平和に過ごせる世界、それはそれで理想ではあるかもしれない。
しかし、その平和を達成する、または維持する過程で何が重要で必要であるかを知っている社会とそうでない社会では、“生きやすさ”が全く違ってくる。

①『経済・物質的に貧しくてもそこそこ楽しい社会』
②『経済・物質的にそこそこ裕福で、そこそこ楽しい社会』
③『経済・物質的に裕福でも心が満たされない社会』
④『経済・物質的に貧しく、心も満たされない社会』
⑤『経済・物質的に裕福で、かつ心満たされる社会』

①は戦後復興~高度成長期
②は高度経済成長を成し遂げたあたりで、一億総中流といわれた一時期
③と④は並列し、格差が拡がった現代であるが、共通しているのはどちらも心が満たされないというところだ。
⑤は理想郷で、世界でそれを共有することは現実的にありえない。


どんな社会でも格差は存在するし、それが自然である。
問題はそれで生じる綻びを、どのように社会が包摂できるのかが重要となる。
大災害がもたらす悲劇には、それはそれで悼むべき出来事だが実は失ったものや気づかない“蚊帳の外”に気づくことができるきっかけになる、という副次的な機能があるのだ。
  

Posted by サブ研-エクリ-  at 21:00Comments(0)TrackBack(0)アニメ・コミック