2009年08月16日
涼宮ハルヒの憂鬱・エンドレス・エイト
涼宮ハルヒの憂鬱、アニメの新シリーズ、『笹の葉ラプソディ』に続いて始まった『エンドレス・エイト』は賛否両論を展開させながら、回数にして8回を数え、終わりを告げた。
このおよそ2ヶ月間の“同じ”内容放送をどうとらえるべきだろうか。
否定派の多くは、単に同じ話を何度も繰り返すことに苛立ちを見せていた。
噂されていた『消失』を早く見たいから、という人は少なくとも原作を見ている人で、それを見ていない人はとにかくストーリーが進まないことに対する苛立ちが、冷静な判断を狂わせていたのであろう。
そもそも、第一期のテレビ放送もあるべき順番では放送されていない。まったく支離滅裂な放送順といえる。
それこそハルヒのアニメの主調なのであろう。
既成の枠にとらわれない、アバンギャルドな表現。それはアニメーションの物理的技術ではなく、演出という時間を取り入れた“遊び”である。
涼宮ハルヒというキャラクター、そしてそれが繰り広げるお話は、まさにアバンギャルドだ。
通常の(時間軸で)アニメ化をしないところに、この作品がメディアミックス上でも特異な位置を占め、話題をさらっていることに異論はないはずだ。
さて、では何故、これほどまで執拗に繰り返したのだろうか?
これは批評的に色々と考察が出来るところである。
そこには現代日本のアニメが包括する社会的要素、そしてオタク的諧謔がある。
テレビが広告機能をネットに奪われだし、社会が大きく、そして短期間で変化する昨今、アニメを取り巻く環境も大きく変わらざるを得ない。
デジタルメディアの普及によるコピーの問題も頭を抱える問題だ。
アニメーションをめぐる経済のフローチャートは激変しているはずだ。
諸作品のメディアミックス化はそれを象徴している。
そうでもしなければ成り立たないのであろう。
ハルヒに話を戻そう。
エンドレスエイトのアナロジーとして、かの有名なギャルゲーの『AIR』が頭に浮かんだ。
『AIR』はノベルタイプの、ほとんど文章を読むだけのゲームで、3編構成となっており、その最後の章“AIR編”は一の“DREAM編”と話は同じだが、主人公がカラスになっていて、話すこともできない状況におかれている。
ゲームではプレイヤー、アニメでは視聴者にあたるが、先の展開が分かっていながら、自分はどうすることも出来ない、ただ眺めているだけ。
(勿論、通常ゲームには自主選択があるが、アニメというかテレビにはない。この場合ではノベルゲームの形態をとったほとんど選択肢のないゲームをさしている)
受動的で、無意識的に消費する娯楽の中に、現実の自分がそこに介入し、演出の中に取り込まれている。
ゲームを普通にプレイしてクリアーする、アニメを普通に鑑賞して楽しむ、そういったサイクルの中ではこのような状況は生まれない。
このエンドレス・エイトでは、何度も繰り返すことに演出上の意味があり、物語の中では1万数千回繰り返された8月下旬を、8回分の放送に収めた。放送された季節は夏。
先に進まず、もどかしく感じていたとしたら、それは演出家の術中に見事はまっていたことになる。
繰り返し(エンドレス)の物語を、繰り返し見させられている自分、が2ヶ月というリアルな現実時間を持って演出された。何ともアバンギャルドではないか!
しかし、そもそもは、この論議は原作を読んで結末を知っているものに限られる。
そして知っている者は、このエンドレスエイトを、実は結構楽しめたのではないかと思う。
そこにはオタク的観点が多分に必要であると思うが、原作を読んでいる時点で、ほぼその能力は備わっていると思われる。
毎回微妙に、色々なことが変化している。
セリフや服装は勿論、カット割りが全く違う。
マルチアングルではないが、様々な視点で同じシーンが描かれており、突っ込みどころが満載だ。
それは単純に面白い。
映画もアニメも限られた時間という制約の中、ワンシーンを最高の構成にして作り上げる。
そう、ワンカットごと意味があり、重要なのだ。
もちろん、このエンドレスエイトでも同じことだが、既に知っているお話、セリフがあることを前提に、次のエンドレスエイトが展開されている。
途中から見たものは分からないかもしれないが、はじめから続けて見ている人は、その違いに面白さを感じたはずだ。
オタク的視点がそれにプラスαしていることは、言わずもがな。
さて、AIRを引き合いにしていたが、それはただ見ているだけしかできない、現実の視聴者である自分と、カラスとなってどうすることもできないAIRの主人公、つまりクリ
ックをし続けるプレイヤーが、同じ心理状況であると思ったからだ。
いつしか人々は考えることが面倒になり、心地よいデータベース消費に、盲目的に満足していることになるのではなかろうか。
『涼宮ハルヒの憂鬱』がそういった社会的側面を意識して作られているかはわからないが、少なくともそう考えることが可能ではある。
たかがサブカルチャー、されどサブカルチャー。
色々な考え方ができるものである。
このおよそ2ヶ月間の“同じ”内容放送をどうとらえるべきだろうか。
否定派の多くは、単に同じ話を何度も繰り返すことに苛立ちを見せていた。
噂されていた『消失』を早く見たいから、という人は少なくとも原作を見ている人で、それを見ていない人はとにかくストーリーが進まないことに対する苛立ちが、冷静な判断を狂わせていたのであろう。
そもそも、第一期のテレビ放送もあるべき順番では放送されていない。まったく支離滅裂な放送順といえる。
それこそハルヒのアニメの主調なのであろう。
既成の枠にとらわれない、アバンギャルドな表現。それはアニメーションの物理的技術ではなく、演出という時間を取り入れた“遊び”である。
涼宮ハルヒというキャラクター、そしてそれが繰り広げるお話は、まさにアバンギャルドだ。
通常の(時間軸で)アニメ化をしないところに、この作品がメディアミックス上でも特異な位置を占め、話題をさらっていることに異論はないはずだ。
さて、では何故、これほどまで執拗に繰り返したのだろうか?
これは批評的に色々と考察が出来るところである。
そこには現代日本のアニメが包括する社会的要素、そしてオタク的諧謔がある。
テレビが広告機能をネットに奪われだし、社会が大きく、そして短期間で変化する昨今、アニメを取り巻く環境も大きく変わらざるを得ない。
デジタルメディアの普及によるコピーの問題も頭を抱える問題だ。
アニメーションをめぐる経済のフローチャートは激変しているはずだ。
諸作品のメディアミックス化はそれを象徴している。
そうでもしなければ成り立たないのであろう。
ハルヒに話を戻そう。
エンドレスエイトのアナロジーとして、かの有名なギャルゲーの『AIR』が頭に浮かんだ。
『AIR』はノベルタイプの、ほとんど文章を読むだけのゲームで、3編構成となっており、その最後の章“AIR編”は一の“DREAM編”と話は同じだが、主人公がカラスになっていて、話すこともできない状況におかれている。
ゲームではプレイヤー、アニメでは視聴者にあたるが、先の展開が分かっていながら、自分はどうすることも出来ない、ただ眺めているだけ。
(勿論、通常ゲームには自主選択があるが、アニメというかテレビにはない。この場合ではノベルゲームの形態をとったほとんど選択肢のないゲームをさしている)
受動的で、無意識的に消費する娯楽の中に、現実の自分がそこに介入し、演出の中に取り込まれている。
ゲームを普通にプレイしてクリアーする、アニメを普通に鑑賞して楽しむ、そういったサイクルの中ではこのような状況は生まれない。
このエンドレス・エイトでは、何度も繰り返すことに演出上の意味があり、物語の中では1万数千回繰り返された8月下旬を、8回分の放送に収めた。放送された季節は夏。
先に進まず、もどかしく感じていたとしたら、それは演出家の術中に見事はまっていたことになる。
繰り返し(エンドレス)の物語を、繰り返し見させられている自分、が2ヶ月というリアルな現実時間を持って演出された。何ともアバンギャルドではないか!
しかし、そもそもは、この論議は原作を読んで結末を知っているものに限られる。
そして知っている者は、このエンドレスエイトを、実は結構楽しめたのではないかと思う。
そこにはオタク的観点が多分に必要であると思うが、原作を読んでいる時点で、ほぼその能力は備わっていると思われる。
毎回微妙に、色々なことが変化している。
セリフや服装は勿論、カット割りが全く違う。
マルチアングルではないが、様々な視点で同じシーンが描かれており、突っ込みどころが満載だ。
それは単純に面白い。
映画もアニメも限られた時間という制約の中、ワンシーンを最高の構成にして作り上げる。
そう、ワンカットごと意味があり、重要なのだ。
もちろん、このエンドレスエイトでも同じことだが、既に知っているお話、セリフがあることを前提に、次のエンドレスエイトが展開されている。
途中から見たものは分からないかもしれないが、はじめから続けて見ている人は、その違いに面白さを感じたはずだ。
オタク的視点がそれにプラスαしていることは、言わずもがな。
さて、AIRを引き合いにしていたが、それはただ見ているだけしかできない、現実の視聴者である自分と、カラスとなってどうすることもできないAIRの主人公、つまりクリ
ックをし続けるプレイヤーが、同じ心理状況であると思ったからだ。
いつしか人々は考えることが面倒になり、心地よいデータベース消費に、盲目的に満足していることになるのではなかろうか。
『涼宮ハルヒの憂鬱』がそういった社会的側面を意識して作られているかはわからないが、少なくともそう考えることが可能ではある。
たかがサブカルチャー、されどサブカルチャー。
色々な考え方ができるものである。

